「ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観」
ダニエル・L・エヴェレット:著
屋代通子:訳

ブラジル奥地のアマゾンで暮らす少数民族ピダハン。彼らの言語には数の概念がない。色を表す言葉もない。右も左もない。著者であるキリスト教伝道師、後に言語学者となるアメリカ人がピダハンと共に暮らして知ることになる驚愕の世界観。読み進むにつれて、自分を取り囲む世界との違いに一体自分は世界をどう見ているんだろうと、全く別の視点から世界を見ることの不思議と解放感が沸き上がる。共に旅する気分で駆け抜けるノンフィクション。
ピダハン言語の特異性に興味を持ってわくわくと読み始めると、最初は著者ダニエルが妻とまだ幼い娘3人を引き連れてジャングル暮らしをスタートした途端にマラリアに罹ってしまい、治療をしてくれる人を探して村々をボートで移動して右往左往する様子が延々と描かれるので、死にそうになって苦しんでいる家族には大変申し訳ないが、言語の事を読みたいし、こういったジャングルに来た都会人のバタバタ話はいらないんじゃない?とじれったく思った。こういうのがずっと続くのか?と言語の箇所以外は読み飛ばそうかとも思ってしまったのだが、結局読んでみて、本当に読み飛ばさなくてよかった。
読み進むうちに解ってくるのだが、言語というものがその民族の暮らし、文化に根付いたものである以上、ピダハンの生活圏に入り込んだダニエル家族の日常生活は当然密接に繋がっていて引き離して語ることが出来ない。ピダハンの人々は基本的には暴力を嫌う穏やかな性質を持つが、時に殺しを含む野蛮な行いがあることも匂わせ、文明から遠ざかって暮らすピダハンとその周辺の民族とダニエル家族との実際の関わりが言語の不思議を立体的に浮かび上がらせているのだ。言語の話のみでこれらの部分がなかった場合、この物語の魅力は半減していたと思う。
著者のダニエルはピダハンの村に入った当初は、キリスト教伝道の手助けとして聖書をピダハン語で翻訳するために言葉を研究し始めた。まだ幼い子供達を連れてピダハンの人々と過ごす中で、子供への躾に大きな違いがあることに気付く。悪い事をした娘シャノンへ折檻をしようとする様を見たピダハンがなぜそんなことをするんだと不思議がる。
ダニエルは自身の子育ての手本には暴力があったと告白している。最初の子供シャノンが生まれた時、19歳と若かったダニエルは「未熟さとキリスト教的子育て観とが相俟って、鞭を惜しむと子どもをだめにするという聖書の教えにしたがい、体罰は妥当であり効果があるとわたしは考えていた。」と言う。
驚いた。が、古い時代を描いたアメリカの文学、映画等で一端の父親が革ベルトを外して子供を折檻する様子や当時の白人が奴隷黒人らに鞭打つ暴力にどうにも腑に落ちない部分があったので、この記述で合点がいったのだった。聖書にあるならば、心の奥底がどういう感情からであろうとも、鞭打つ行為自体に抵抗感が薄くなるのかもしれない。
”鞭を惜しむと子どもをだめにする”という教えがキリスト教にあるのは本当か?と思って調べてみると、確かに聖書に「鞭を惜しむな」はあり、他にも随所に鞭の表現が出てくるという。しかし”鞭”を子供を正す為の別の行動の隠喩であると解釈することも出来ると。でも、、、書いてあるということは、それを深読みしなければ素直に鞭を惜しまずに躾をするぞとダニエルのように教義に従う人も出てくるでしょう。だって聖書を信じてるんだから。
実はダニエル以前にもピダハンの村に入り聖書の教えを伝えようとした伝道師がいた。が、ピダハン達は全く興味を持たず、長年の滞在でピダハンとの関係も良好だったダニエルもとうとうピダハンにキリストの話はもう聞きたくないと言われてしまう。ピダハンの言語と文化には”今”という直接的な体験に根差しているらしいことが分かってくる。ピダハンは直接誰かから聞いた話、体験した事でないと興味がない、信じるに値しない。誰も会ったことのないキリストという人の物語、大昔の物語に価値を見出せないようだ。
そもそもピダハンはどの民族でもあるとダニエルらが信じていた創世神話や口承の民話を持っていない。今自分が見聞きできる直接的な体験を重要視しているピダハンにとって自分達がどこから来て、、、等という話に興味がない。今、ここにいるのが全てということだろう。それ以上に何を?という、別目線。豊かなジャングルにはピダハン達が食べるものが豊富にあって、彼らは毎日魚を獲りに行ったり、木の実を食べたりして笑って暮らしている。明日の食べ物を取って置くこともない。だってそこに十分にあるよね、ということだ。その日より先の計画は立てないし、遠い未来、昔の事は話さない。
性に対してもおおらかで男女の諍いがあったりもするが、結構あっさり目に解決する方法を持っていたりする。浮気した夫を膝枕しながら、妻が棒で夫を気が済むまで叩く(!)。叩き終われば元に戻る。ピダハンの直接的な気持ちの放出の仕方と傍から見るとマンガのような仲直りの方法にユーモアさえ感じる。”今”を生きる人々の明日への切り替え。
ダニエルはピダハン達に無意味な生き方をやめて、喜びと信仰に満ちた人生を選ぶ機会をキリスト教を伝えることで提供しようとした。しかしピダハンはそのキリストという男が自分が言った通りに人を振る舞わせたがっていると理解していることが分かってダニエルはショックを受ける。
良かれと思っていた。信じていた伝道の使命に疑念が浮かんだダニエルは心身を休めるために一旦休暇を取って伝道の難しさについて考えているうち、福音学の恩師がよく言っていた「救いの前に彼らを迷わせなければならない」という言葉を思い返す。満たされた生活をしている者よりも迷える羊の方が救いを求めて新たな信仰を受け入れる。”今”の暮らしに満足して笑って暮らすピダハンに全くキリスト教が受け入れられない答を見つけるのだった。人の手など借りなくとも彼らは問題なく自分の事は自分で守るし、自分の手で守りたいと思っているのだった。はっきり言うと、余計なお世話なのだった。
私はキリスト教徒ではないので、ピダハンの方に近い。ダニエルは善良な人だと思うし、ピダハンにより幸せになってほしくてやっている。が、本当に余計なお世話だと思う。自分達が信じるものが絶対だと無理に他者にぶち込まないでほしいのだ。
さすがにダニエルは自分が大切にしてきた教義も信仰もピダハンにとっては全く的外れだったと気付く。この神聖なメッセージが世界のどこに行っても通じるものだと信じ込んでいた自分を振り返る。ピダハンに福音を拒否されたダニエルは自分自身の信仰自体にも疑念を抱くようになり、もはや聖書の言葉も奇跡も信じなくなる隠れ無神論者となって年月を過ごす。いつしか脱信仰者だと人に知られてもいいという心境になった頃、とうとうカミングアウトして家族崩壊する。
ピダハンの子供達の屈託のない笑顔の写真が添えられた最終章でダニエルは「ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席捲している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。」と書いている。どちらの世界がいいとはわからない。だが「絶対的なるもののない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。」とピダハンの世界に魅了され、自身の信仰さえ捨てた。
「西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。」
人生をあるがままに楽しむピダハン達の言語に、自分達に当たり前に存在していた土台がない事に驚き、その意味する事を考えた末にダニエルが到達した世界観。これは、ただ言語を探る物語ではなかった。アマゾンで猛烈に蚊に刺されながら体感した、たたき上げ哲学ノンフィクション。相当面白い。
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ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観 [ ダニエル・L.エヴェレット ] 価格:3740円 |
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