「プロミシング・ヤング・ウーマン」

医学部の学生だったキャシー(キャリー・マリガン)は、同じ大学に通う親友ニーナが同級生にレイプされ、それを告発して周りから追い詰められ絶望、自殺したことを発端に大学を辞める。その後はコーヒーショップ勤めを続けていた。
別人のように変わってしまった娘に困惑する両親と共に暮らしているキャシー。ここはアメリカ。いい年をした大人が両親と同居しているのもどうなんだ?の雰囲気の中、キャシーは夜な夜なバーやクラブへ出向いて、親友の”復讐”をひとりで実行しているのだった。
酒に酔っぱらったフリをすると、男がすぐに「大丈夫かい?」と下心いっぱいに近づいてきてキャシーをお持ち帰りする。酔ってる女をベッドで好きにしようとする男に向かって、突如素面を突き付けてビビらす。「そんなつもりじゃなかった」と”善い人”と自分で思っている男達に心の大ダメージを与える鉄槌を仕掛けているのだ。これがキャシーの男への”復讐”だった。
復讐の数をメモしているキャシー。どんだけ実行してきたのか!の手帳。

主演キャリー・マリガン。この人、実際は童顔の可愛い人だよね。キャシー役は30才前くらいの設定。まだ年老いてくる年齢でもないのに、結構なやつれ感。で、そのやつれ感がひとり仕掛ける復讐に凄みを出していた。目の奥に疲れがある。可愛いけど、フレッシュな生命感が全然ない。キャシー役を演じた時のマリガンは33才くらい。実際のマリガンはこんなにお疲れ顔じゃない。だから、キャシーが自分の人生を投げちゃってるっていう、やつれの仕込みが素晴らしいなって。

復讐をしているキャシーは引っ掛けた男達をみんな殺すのかと思った。でも殺さないで口で言ってビビらせてそのまま帰って行く、普通に。パンチもキックもない。それをひたすら続ける。だから映画的にこのくらいの復讐でいいんだ?って、逆にキャシーが男達に段々と顔が知られていって、酷い目にあうんじゃ?と思って。そんな怖さがあった。危な過ぎるよ、君?って。
でも話は全然そこじゃなくて。優秀な医学生だったキャシーは賢くて、着々と復讐を実行していくのだ。キャシーは男にとって恐ろしい存在になっている。男がキャシーを”何を考えているかわからない怖い女”として見るなら、そこにはこの映画が仕掛けたホラーがある。女の気持ちがそもそもわからないから。いや、想像しようともしてないから。都合よく解釈してるから。それをキャシーに突き付けられて、「僕ってそんな男なの??」って自分の加害性にビビらされる。
これは女性と男性で映画の感想が全く違ったものになってしまうんじゃないか。女性の場合、「まったくよ。」っていう同感。男性の場合は、本当にもう底深い怖いホラーとなって震え止まらん状態になる。
ただ、男性だけでなく、無意識に加担して、自分の加害性に気付かない女性達の存在も目立っていて、単純な男対女として描いてはいない。
性暴力というテーマを扱っているから内容的にはきついし重いのだけど、やさぐれすぎてるキャシーの衣装と自室がガーリーでやけに愛らしくて、現代的なお洒落感のコーヒーショップの内装だったり、ポップな音楽だったりを散りばめて重苦しい雰囲気は吹き飛ばされている。その絶妙なバランス感覚で嘘みたいに観る者に復讐エンターテイメントを楽しませることに成功している。映画としての完成度がすごく高い。エメラルド・フェネル監督は元々は女優で、この作品が長編の初監督作ということで驚く。

キャシーが死んだニーナのママに会いに行った時、ママはキャシーが大学時代から停滞したままでいることを憂いて「前に進んで。」と言う。そうなんだ。観ている方もママの気持ちはわかる。けど、わかっちゃいてもやっぱり前に進めないんだ。だから復讐しかない。自分を削っても。
タイトルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』だけど、本来はプロミシング・ヤング・マンという男性のための決まり言葉があって、それは名門校の学生やスポーツ選手といったエリート男子学生が性暴力事件を起こした時なんかに、前途有望な若い男性の未来を潰すなという文脈で出てくる。司法や世論が加害者である「男の将来」ばかりを優先して保護し、罪を軽くしようとする際の常套句。
対して、プロミシング・ヤング・ウーマンという言葉は使われない。被害にあった女性の人生は事件によって完全に破壊されているにもかかわらず、社会から無視された。ニーナの未来、キャシーの未来、それぞれの女性に前途有望な未来があったはずだった。男性の未来ばかりが守られ、女性の未来はなぜか簡単に踏みにじられてしまう。エリート男子の性暴力を若さゆえの一時の軽い過ちとして容認してきた社会をキャシーの精気のない目が見つめている。
手帳に復讐記録をつけて心の澱をなんとか沈めていたキャシーなんだが、ニーナをレイプした主犯が有望な医師としてのうのうと暮らして、どこぞのお嬢様と婚約したことを知る。ニーナの事件を軽く扱った人間が、何事もなかったように幸せな人生を送っている。そのことがキャシーには耐えられない。ビッグな復讐を仕掛けるため、ふざけるんじゃない!とそいつのバチェラーパーティのストリッパーとしてバッチリ盛り過ぎのナース姿で潜入。本星の男を捉えに出向く。成敗!

[以下、ラストのネタバレです。]
キャシーは計画通りに本星の男を成敗する。が、反撃を受けて死ぬという信じられないラスト。で、思った。結局キャシーが死んだことでさらに重い罪をこの男に背負わせることができたって。ブラックな結末だけど、結果的に成功したって震えた。
そしたら男らが死体を燃やして証拠隠滅。なので、え、もしかしてこのままでこの男達は何の咎めもなく過ぎていくっていう最低最悪の結末を持ってきたんか!ってビビリました。女ひとりの復讐なんか、男達の連携で完全封印されるんだと。結局こういう風に社会が流れていくんだよね、っていう絶望。
そしたら、最後にビッグな復讐が待っていたんだが。本当は監督は死んだままお咎めなしのラストを考えていたと。ただ、これでは本当に絶望過ぎるって映画関係者に不評で変えざるを得なかったということです。
まぁ、あまりに辛いのもどうかと、ラストで命をかけてまでっていうのを見せて、それでスカッとしてもらおうということだと思うけれど。只それでも悲劇過ぎるね。スカッとしえない。なぜキャシーが命かけてまでやらなきゃいけない?主犯の男の他に周りを囲む男達の存在がある。自分は手を下していない。でも一緒になって笑ってた。それは擁護される。そこまで罪に問われないみたいな話になる。だからなんかもう、完全にやるせないんだよ。もう何重の意味でもやるせないんだよ。
「そんなつもりじゃなかった」とか色々と言うけど、核の部分は崩れようもないというか。お前もかよっていうのがある。もうキャシーは生きてたってしょうがないっていうのがある。だから命懸けだよ。命をかける意味が出ちゃうんだよ。悲劇。
私は証拠隠滅のままのラストの方が恐ろしいし、社会の理不尽さを究極の形で見せているように思ったので、そちらの方が映画の仕上がりはよかったと思う。けれど、やっぱりあまりに辛いから、観客がダメージを受け過ぎてしまうかもしれないね。最後に少しばかり溜飲を下げることが出来て心が救われたんだ、きっと。
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