怪物は精霊の仮の姿。だから死んでない。無垢な心に染み入る死の危うさ

スペイン映画「ミツバチのささやき

 

 

養蜂を営む家庭の幼い姉妹は、村にやって来た映画「フランケンシュタイン」を見る。その夜、妹のアナはどうしてフランケンシュタインが少女を殺して、フランケンシュタインも殺されたのか?と姉イサベルに尋ねると、フランケンシュタインは精霊だから死んでいない、あの姿は出歩く時の変装なのだとイサベルは答え、イサベル自身も村外れに怪物が隠れているのを見たことがあると言う。

 

イサベルの精霊の話に聞き入るアナ。ピュアな眼差し。

 

学校帰りにイサベルは村外れの廃墟をアナに案内する。枯れ地のうら寂しい風景。

 

イサベルは妹アナをよくからかって楽しんでいたので、精霊の話もからかいのひとつだったのかもしれない。まだ幼いアナは映画フランケンシュタインの衝撃とイサベルの話を全面的に受け止めて、精霊に会えるかもしれない廃墟にひとりで通い出すのだった。

 

ある日、汽車からひとりの男が飛び降りる。脱走兵か、犯罪者のようだ。飛び降りた時に脚に怪我をした男は村外れの廃墟に身を潜める。アナは傷を負っている精霊の仮の姿をした男を見掛け、食べ物や父の外套を差し出すのだった。

 

夜、精霊の廃墟に閃光が走り、男は銃殺された。

 

翌日アナが廃墟に行くとそこに男の姿はなく、男が横たわっていた場所に血の跡を見る。アナは精霊に何かあったと悟る。そこに父が現れ、逃げるように走り出したアナはそのまま行方知れずになり、村で捜索が始まるがアナは見つからないままに夜を越えるのだった。精霊はアナを救ってくれるだろうか。

 

後半にアナが廃墟で男を見つけるまで特に大きなことは起こらず、母親が誰かの安否を気遣う手紙を出し続けていること、夫婦の関係が冷えている様子など、それとなく伝わるものはあるが分からない部分が多い。淡々と静かな日常が綴られるのみ。映画を観終わった後で、これが1940年代のスペイン内戦終結直後の話で、その後に続く独裁政治を遠回しに批判している映画ということを知った。検閲を逃れるため遠回りな表現をしたらしく、それらは前知識が何もない状態で観た私が気付くことはなかったが、仮に先に前情報があったとしても、おそらく分からなかったのではないか。

 

そういった隠れ表現がわからないとしても、この映画は観る者に訴えてくる。それは8割方、主人公アナの無垢な表情と愛らしさから目が離せないため。あまりの可愛らしさに何度も死にそうになった。。。彼女だけで映画1本が成り立ってしまう。

 

他、イサベラが飼っている猫の首を絞めて(!)、反撃され指からの出た血を唇に塗るシーン。父親が蜂の生態について生涯を働き詰めで死んでいくことを語るところなど、当時の抑圧された政治に対してのメッセージがあったのかもと思う部分はあるが、背景が分からずとも、そのまま観て静かで美しい映画だと思う。

 

母親がピアノを弾く、ほんの小さなシーン。光の入り方、古いピアノの音がしみじみと響く。ここも曲目にメッセージがあるのかもしれないが、分からなくとも美しさが覆う。

 

内緒で訪れる廃墟の井戸を姉妹が背伸びをして覗き込む、線路に耳を押し当ててすぐそこまで近づく汽車の音をぎりぎりまで聞く、学校の授業で先生が骸骨人間を使って体の一部がないと体が機能しないことを教える、毒キノコを見分ける。外界の大きさに対しての幼い姉妹の非力な頼りなさから、終始、死への危うさが感じられた。

 

朝明け、窓枠が十字架のよう。精霊に言葉を掛けるアナに光が注ぐ。美しいシーンの連続。